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エッセイ
宗教の無法に思う
 

今年3月の地下鉄サリン事件以来、オウム真理教の数々の集団テロや犯罪行為が明らかになってきた。その余りの酷さ、非人間性には、ただ唖然とするばかりである。
坂本弁護士失踪事件の翌年の90年、私はオウム被害者救済弁護団の一員として、子供達れで「出家」してしまった妻の夫がオウムから子供を取り返す人身保護請求の裁判に関わり、また当時オウムの施設進出で揺れていた熊本県波野村の現地調査にも参加したことがあった。サリンや銃の密造、信者に対する薬物の使用や殺人までは当時は明らかにはなっていなかったが、坂本弁護士一家失踪事件はオウムに重大な疑惑が持たれ、また「出家」の際の全財産の巻き上げや、オウムの施設での過酷な生活の実態は、当時から相当明らかになっていた。また、上九一色村では建築基準法違反の建物(サティアン)を次々と建築し、住民たちは行政に通報したり建築禁止の仮処分の申立てもしたりしていたし、波野村でも、村をあげてのオナム進出反対運動が展開されていた。
しかし、「サンデー毎日」などごく一部のマスコミを除き、大部分のマスコミは素知らぬ顔であった。警察も、坂本弁護士が革新的な弁護士であったためか、坂本事件に対する動きは鈍く、住民のオウム進出反対運動に対しても、逆に住民運動を敵視するような有り様であった。マスコミが当時からもっとこの教団の反社会性を取り上げていたら、また警察がもっと早くから被害者らの訴えに耳を傾け、必要な調査をするなどしていたら、これほどまでに悲惨な犠牲を生まなかったのではないかと悔まれる。
しかし、ひるがえって考えてみると、そのような反社会的な行動は、ことオウム真理教に限ったことではない。続一協会の集団結婚式や詐欺商法、創価学会の政教一体や住民票移動、日本共産党の宮本議長宅への盗聴事件など、程度の差はあれ似たりよったりである。
にもかかわらず、警察やマスコミの動きは鈍い。それは、日本人が一般的に宗教に対して寛容であることに加えて、それらの教団が特定の政治勢力と結びつき、その政治勢力が教団によって甘い汁を吸っているからである。そして現在のマスコミは、翼賛的な政治状況に迎合的になっているため、これら教団への批判をためらう傾向があるからである。
ところがオウム真理教の場合は、そのような結びつきは弱く、そのうえ「ハルマゲドン」(最終戦争)なるものを唱えて自ら国家権力に対して「宣戦布告」を行い、ついには地下鉄サリン事件といった無差別テロにまで及ぶに至って、ようやく政治が重い腰を上げたのである。するとマスコミは、今度は視聴率や販売部数を競って、過剰なまでの報道合戦である。
このような教団と政治やマスコミの対応に共通しているものは何か。それは、教団によって被害を受けている信者や市民の基本的人権に対する視点の弱さである。
信教の自由を尊重することと、その反社会的な活動に対して市民や世論がが正当な批判を行うことは別である。我々市民がこれらの問題にもっと的確な批判をし、世論とマスコミを動かすだけの力をつけなければならないし、そのためには、被害の実態にじかに接し、法的手段をとったり、マスコミに発表したりすることのできる我々弁護士の役割は特に重要である。
しかし、弁護士であっても、宗教団体と対立したりすることは、正直言って相当な勇気がいる。その意味で坂本弁護士事件は、我々弁護士全体に対する脅威でもある。我々弁護士は、たとえ相手が宗教団体であっても、人権擁護と社会正義の実現のために戟う勇気を持ちつづけたいし、他方で、多くの仲間の弁護士と協力し、また被害者や市民と連帯して、被害救済に取り組んでいくことが必要であると思う。

(いずみ創刊号「オアシス」1995/8/10発行)

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